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日志


2009年11月

読書の秋に

 

最近、ふとした瞬間に、こんな質問を投げかけられた。


 

「マンガとかって、読んだりする?」


 

あまりにも寝耳に水の質問だったので、私は「へっ??何??」と訊き返していた。話の流れからは、そんな問いかけは浮かんでこなかったのだ。


どうやら、私がいつも活字の本ばかりを読んでいることに対しての素朴な疑問だったようなのだが、そう言われてみれば、私は普段ほとんどマンガを読むことはない。別に、嫌いとかいう話ではなく、ただ単に読まないというか、特に読みたいものもないという次元の話なのだが、やっぱり普通それなりに読むものなのだろうか。あんまり考えたこともないのだが、振り返ってみれば、小中学生のときは、集英社系の少女マンガをごく普通に読んでいた。高校生の時はと言えば、古典の勉強も兼ねて、源氏物語の「あさきゆめみし」を何回も読破したりもしたのだが、今ではほとんどマンガには縁のない生活をずっと送っている。


そもそも、フィクションよりもノンフィクションが好きという性格の私である。フィクションを読む時間があるのなら、本当に起きたことを、知らないことを、もっと知りたいという人間なのだ。ある意味、冷めているというか、史実的なところに興味があるため、どうしても作られた話よりも、リアルな出来事に興味が向かう。しかも、活字好きということもあって、なかなかフィクションでイラストのマンガには興味が向かない。もちろん面白いマンガは山ほどあるとは思うのだが、はまってしまうと抜け出せない私であるため、むやみにも手を出さないような感じである。


とはいえ、今になって、読みたいなぁと思うものがでてきた。それは、マンガ版の日本の歴史。またしても史実なわけだが、城めぐりをしていたら、案の定、歴史の知識が足りないことを痛感し、やっぱりここでちゃんと復習しておくかと思ったのだ。別に、歴史の教科書を読んでもいいのだが、マンガのほうが古代から現代まで短期間で一気に追えそうだという安易な考えで、今読んでいる本が終わったら、どっぷり読みふけろうと思っているわけである。そしてまた、それと同時にお城の本にもどっぷりとはまりたいし、読みたい本が次から次へと出てきて困るような今日この頃なのである。



時間があるうちに1冊でも多くの本をと思う、読書の秋。


 

 

2009年2月

冬ごもりの読書

 

2009/1/23

 

 

毎年1月になると、どういうわけか私は図書館へ行く回数が増える。今年もそうだし、去年もそうだ。そして一昨年も同じ行動パターンだったのをいまだに私は覚えている。なぜか1月になると、読書モードに一気に入るのだ。おそらくそれは、冬ごもりの寒い時期であること、春や秋のように植樹祭がないこと、そして何より、1月は仕事が落ち着く時期にあるということが、大きな要因のように思う。

 

今年もまた、そんな「冬ごもり読書」とでも言うべく、私はどっぷりと本を読んでいる。そして、図書館にも足繁く通っている。もっぱら読んでいるのは、大好きな作家、ポール・オースター氏ばかりだが、他にも数冊目を通したのもある。とはいえ、やっぱり今はオースターモードからは抜けられない。まだまだ読みたい本がたくさんあるし、しばらくはずっと、この独特な世界に浸っていたいと思うのだ。

 

 

 

読みたい本はたくさんある。読んでとおすすめされた本もいくつもある。

 

 

 

1日が30時間だったら、どんなに毎日いいだろう。

 

 

そんなことすら考える、冬ごもりの時期。

 

 

 

 

今だけはどっぷりと本を読ませて。

 

 

そう、思いながら。

 

 

 

2009年1月

ある日の休日

 

 

2009/1/17

 

 

ある日の休日。ふと思い立って、自分の部屋の一点をただじっと見つめていた。

 

 

「うーむ。どうしよう。」

 

 

そう思いながら、私はよしっと決心した。ずっと前から気になりながらも、なかなか行動に移ることができなかったある作業だ。

 

 

「今やらなかったら、一生できない!」

 

 

そう半ば自分を追い込み、私は目の前にあるものたちを吟味し始めた。

 

 

「これは、残す。こっちは、処分。」

 

 

そう思いながら、取捨選択をすることにした。目の前には積もりに積もった雑誌の数々。そう、過去数年間にわたり、週刊誌、月刊誌、ありとあらゆるタイプの雑誌をずぅっと私はそのままとっておいたのである。いや別に、不要な物を貯めておいたのではない。ちゃんと、必要だから貯めておいたのである。しかし、あまりにもその数が膨大になってしまったため、私はえいっと決めることにした。そう、不要な部分は捨ててしまおうと思ったのだ。そうでもしないと、私の部屋はそのうち本でいっぱいになってしまう。

 

 

中身を吟味し取捨選択をした結果、大事に取っておくタイプの雑誌や豪華本は、やはりすべてそのまま残すことにした。そして、1ページや数ページの記事だけを残しておきたいものは、必要な部分だけ切り取り、まとめて保存することにした。週刊誌、文芸誌、ビジネス誌にスポーツ誌、グルメ誌に音楽誌まで。ありとあらゆるタイプの雑誌から必要な場所、永久保存しておきたいところだけカッターで切り取り、いらないものをひたすら取り除く。その作業、実に2時間ほど。ときおり、懐かしい記事や懐かしい写真など、ありとあらゆるものが私の手を止めにかかったが、それでもやるべき作業をすべて終えた。「あんなにあったのに」という雑誌の山の95%くらいも、資源ごみとすることにした。束ねて出すこと、重いの4束。

 

 

 

必要なものだけを大事に残す。物が捨てられない私にとって、大事な雑誌に手を入れ処分するということは思ったよりも一大事なようだ。

 

 

 

11枚丁寧に、大事なものだけそばに置く。

 

 

 

気がつけば、心がすうっと落ちついて、なんだかとっても幸せな気持ちになっていた。

 

 

 

 

2009年1月

思い出した本 vol.4

 

2009/1/16

 

 

(前回から続く)

 

 

1年前に衝動買いした、一冊の洋書。その出会いは後々、不思議なストーリーを紡ぎだしていった。ニューヨークへの旅、そして思い出の土地での空想のストーリー。それはまるで私がニューヨークを訪れる時を見計らっていたかのような、そんな不思議な展開だった。

 

 

しかし、話はこれだけでおわらなかった。約2か月ぶりにこの作家の本を読み始めたことで、私の中では読書モードのスイッチが入ってしまったのである。そしてある日、何の気なしに近くの図書館へ行き、同じ作家のいまだ読んでいない作品を探そうとした。すでにたくさんの本を読み終えている私は、とある1冊の翻訳本を検索機で見つけ出した。その日その図書館ですぐに借りられるのは、その1冊だけだったのである。

 

私は受付カウンターでその本をお願いし、書庫から出してもらうことにした。作品名は私も以前から知っていたが、実際に手に取るのは初めてだ。それくらい古い本であり、また私にとっては内容が全くわからない本でもあった。司書から手渡されたその本は、見るからに年月が経っていそうな、古めかしい感じである。奥付を見てみると、発売はなんと1989年。20年も前に出版されたという、時代を感じさせる本である。原作はと言えば、英語で1986年に出版されており、すでに23年近くもの時が流れている。この本が書かれた当時、私はまだ小学1年生だ。自分でも信じられないと思いながら、私はその本を大事に鞄に入れ、図書館を離れることにした。ある寒い、しんしんと冷えた夜のことだった。

 

 

図書館を後にした私は、足繁く通うカフェに向かうことにした。いつも訪れる大好きなカフェだ。そこで私は、つい先ほど借りた本をおもむろに開くことにした。ページもそれほど多くなく、きっと23日もあれば読めるだろう。そう思ってわくわくしながら読み始めると、舞台はニューヨークのようだった。今までずっと、ニューヨークが舞台の本は、なぜか結果的に自然と避けることになっていたのに、突如、偶然か必然か、ニューヨーク以外の場所が一切出てこない本に出会ったのである。これもなんとも不思議な話だ。しかし、話はそれだけではなかった。くらくらしそうなほどに、私があの3日間で訪れたマンハッタン、そしてブルックリンの場所が、通りが、次々と出てきたのである。まるで私が、自分自身が、ニューヨークの街で経験をするのを待っていたかのように、その本はふっと目の前に現れた。自分がつい2週間前に歩いていた場所を、20年以上前に書かれた本の中で、主人公が同じように歩いている。同じ場所を20年以上も経て経験するという、なんとも奇妙な時空の流れ。きっともしかしたら、この不思議な経験をするために、私はニューヨークを訪れたのだろうか。そんなあり得ないことすら考えてしまう。

 

 

結局、23日かかると思っていたこの本を、私はその晩、ノンストップで読み終えた。ものの3時間程度で一気に読み終え、なんだか頭の中がぐるぐると回っていた。

 

 

天才ポール・オースターが描く世界は、いつもリアルで、いつも複雑だ。フィクションのはずなのに、ノンフィクションよりリアルな世界が目の前に見えてしまう。人間の心理をするどく深く、丹念に丁寧にじっくりと描き出しながらも、読む者にすきを与えないほどのスピードと勢い。一度その渦に飲み込まれたら、どこまでもその力に引きこまれ、方角もわからないような、二度と元に戻れないような、そんな奇妙な感覚にも陥ってしまう。そして気がつけば、ぽんっと一瞬でどこかに放り出されたかのような、なんとも言えない虚脱感、そして、水を打ったような静けさに包まれる。これは現実か、それとも夢か、幻か。そう誰かに訊いてしまいたくなるような、そんな独特な世界が、いつもオースターによって繰り広げられていくのである。

 

 

結局、今も私は、ブルックリンブリッジの夜景が表紙を飾る一冊の本、『Oracle Night』を毎日読んでいる。残念ながら、翻訳版が出されるにはかなりの時間がかかりそうだが、きっといつの日か名翻訳者 柴田元幸先生によって、素晴らしい日本語版が世に出されるだろうと期待している。そしてまた、私の枕元にはまだこれから読み始めるオースターの和訳本が数冊積まれている。それが終われば、今度は、日本では翻訳されていない洋書を手にすることになるだろう。それくらい、オースターの世界にはまっているし、他に読みたい本が、作家が出てこないほどに、私はこの作家が好きなのである。

 

 

好きな作家との出会いというのは、ある種、人生を豊かにしてくれる幸福な引力だと思う。またひとつ好きなものが、好きな世界が、好きな時間が増えていくことに、そしてこの素敵な出会いに、やはり心から感謝すべきだろう。

 

 

 

そんなことをこの寒い1月、私はじっと密かに思っている。

 

 

 

2009年1月

思い出した本 vol.3

 

2009/1/15

 

 

(前回から続く)

 

 

久しぶりに手にとった1冊の洋書。表紙の写真は、つい2週間前に目にしたニューヨーク、ブルックリンブリッジの夜景であった。そのタイミングの良さに驚いた私は、1年ぶりにその本を読み進めることにした。ストーリー展開を頭の中で思い出しながらも、最初から再び読み始めることにしたのである。

 

 

ページを開き、文章を読み始めていると、私はなんとなく以前読んだ世界にすうっと戻っていく感覚を覚えた。そうそう、確かこんな話だった。そう、頭の中で追っていったのである。しかし、ページを進めているうちに、実に不思議なことを感じ始めていた。同じ文章を読んでいるにもかかわらず、同じストーリー展開を追っているにもかかわらず、1回目に読んだ時とは確実に頭の中で作られるイメージが違っているのである。この本は日本語で翻訳されているわけでもなく、実写化されているわけでもない。しかし頭の中で出来上がっている絵図が前回とは全く異なるのである。なぜ、こんなにクリアに世界が見えているのだろう。

 

 

そう疑問に思いながら、私ははっと気がついた。ニューヨークマンハッタンのとある通りの名がぱっと出てきたのである。その時私はようやく気がついた。景色がはっきり見えているのは、私が訪れた場所や通りの名前、そして目にした建物の名前がそこかしこに出てくるからである。ニューヨーク・ブルックリン在住の著者が描くストーリーは、ニューヨークの街が登場する、もしくは舞台とするものが多い。しかし、不思議なことに、私はこれまで彼の作品を何冊も読んでいるにもかかわらず、なぜかニューヨークではない土地を舞台にしたものがほとんどだった。内容も知らず、その時々で手にしたものを読んでおり、作品リストの順番を追っているわけでもなんでもないのだが、どういうわけか、ニューヨークを舞台にしたものは自然と選んでいなかったという結果になっていたのである。

 

 

ページを進めるごとに、登場人物が見えている世界、置かれている世界が、私にも手に取るようにわかるような気がしていた。私がニューヨークに滞在したのはたったの3日間。全部を回ることなどもちろんできておらず、時間が十分にあったとは言い難い。しかし、あの街で過ごした時間と経験は、確実に自分の体と心、そして意識に吸収されていたのである。

 

 

ストーリーを追いながら、私は1回目に読むのをやめてしまった50ページの辺りを、問題なく通り越していた。やめてしまったのは、英語のせいではなく、内容のせいでもなく、きっと何か他の要因があったのだ。

 

 

 

そして途中、何気なく読んでいると、思わず目を止めてしまう文章に出くわした。

 

 

You’ve seen the pictures , but the pictures don’t tell you what it was like. You have to go there and smell it for yourself ; you have to be there and touch it with your own hands.

 

 

 

まるでわが恩師宮脇昭先生がいつも口にする、この言葉のようである。

 

 

「現場に行き、目で見、手で触れ、匂いを嗅ぎ、舐めて触って、初めてわかる」

 

 

 

私はこの言葉をじっと見つめながら、1年以上忘れていたこの本のことを考えた。途中まで進みながら、読むことをやめてしまったこの洋書。それはまるで、私がニューヨークを訪れる時をじっと待っていたかのような、そんなタイミングの図り方である。1年前にすんなりと読み終えていたら、きっと私はさして頭の中でストーリーのイメージを膨らませることもなく、タイミングの良さを覚えることもなく、ただ普通に物語を読み終えていたに違いない。

 

 

そう思うと、なんだかやっぱり、目に見えない何かの力が働いているような気もするし、それはまた引力のような気もするし、同時に偶然といったタイミングの良さと思えるような感じもしてしまう。

 

 

1年以上前のある日、ふいに手にとった1冊の本。

 

 

その本が、ここまでストーリーを紡ぎだしてくれることもまた驚きであるし、本を読みながら、幸運に感謝しなければと私は密かに思っている。

 

 

 

 

しかし、この話。実は、これで終わりではない。

 

 

まだ続きがあるというのも、これまた不思議な引力なのであった。

 

 

 

2009年1月

思い出した本 vol.2

 

2009/1/14

 

 

(前回から続く)

 

 

1年以上前に衝動買いをした1冊の洋書。その存在を長らく忘れていた私は、ある日突然ふとしたきっかけでその本を思いだすことになる。ベッドの枕元という“灯台もと暗し”な場所で見つけ、久しぶりに手に取った私は、思わず、動きが止まっていた。表紙を見た瞬間、その写真に驚いてしまったのである。

 

 

洋書を飾るモノクロのカバー写真。それは私がつい2週間前に訪れたニューヨークの夜景だった。しかも、一番見ることを楽しみにしていた、ブルックリンブリッジの景色。なぜそれが、一番行きたかった場所だったのか、自分でもいまいちよくわからない。しかし、私は妙にその風景を心待ちにしていた。そうして私が、初めてニューヨークを訪れた日、一番最初に訪れたブルックリンブリッジが、表紙を飾っていたのである。洋書の舞台はニューヨーク。それは私も覚えていたし、なんとなくストーリーも頭には入っていた。しかし、表紙が何だったかは、私は全く覚えていなかった。ブルックリンブリッジであったなんて、まったく予想もしていなかった。実際、この洋書を買った時は、まだニューヨークにさして興味も示していなかったし、実際にニューヨークへの旅の計画を始めた時は、この本の存在を完全に忘れていたのである。

 

 

手にした瞬間思わず固まってしまった私は、表紙をじっと眺めながら、あぁこれは呼ばれているんだなと確信した。きっと、今読んでと言われているんだろう。そう、心の中で感じていた。

 

 

表紙を開き、中を見てみることにした。しおりが示していたのは50ページ過ぎ。ストーリーはおぼろげながら覚えているが、このまま先に進めるべきか。それとも1から読み始めるべきか。その時私は、なんとなく最初から読んでと言われているような気がしていた。また、引っ張られるような感覚に陥ったのだ。

 

 

これから何が始まるんだろう。

 

 

そう思いながら、私はページを進めることにした。ある日の真夜中の出来事だった。

 

 

 

2009年1月

思い出した本 vol.1

 

2009/1/13

 

 

ふとした瞬間に、忘れていた本のことを思い出した。1年以上前に何の計画も情報もなく、衝動買いした1冊の洋書だ。

 

 

買った当初私は、その本を夢中になって読んでいた。むさぼるように読み、そして50ページ以上まで進んでいた。しかし、どういうわけか、そこでその歩みは止まっていた。きちんとしおりが、そのページを記録していたのである。

 

 

どうして途中でやめてしまったのか。今ではその記憶をたどることもできないが、おそらくはかなり仕事が忙しい時期であったこと、また大きく体調を崩していた時期であったことが大きな理由だったのではないかと思う。難解な英語に苦労したのは想像に難くないが、確かそれが一番の理由ではなかったはずだ。いずれにせよ私は、その本を、3分の1程度まで読み進めていた。そして、いつの日かぱったりと読むのをやめた。そうして気がつけば、1年以上の年月が過ぎ去ってしまっていた。

 

 

すっかり本のことを忘れていた私は、ある日急にその洋書の存在を思い出すことになった。そしてどこにやったかとすぐさま自宅の本棚を探したが、どうもありそうなところには並べられていなかった。

 

 

「おかしいなぁ。無くなるはずないのに。」

 

 

そう思って私は、ふとベッドに目をやった。今読んでいるものや、そのうち読もうと思っている本がベッドの横には何冊も積み上がっている。そのタワーのように重なった本を一冊ずつ見ていくと、探していた本はみつかった。下から数えたほうが早い位置にはあったが、確かにその本は枕元に置いてあった。ずいぶんと長い間ここにあったにもかかわらず、しょっちゅうタイトルも表紙も目にしていたはずにもかかわらず、まったく私はその本の存在を気にも留めていなかったのである。

 

 

「なんだ、ここにあったんだ。」 

 

 

久しぶりにその洋書を手にし、表紙を見た瞬間、私の動きは止まってしまった。

 

 

 

自分も予想していない展開は、こうして少しずつ、始まろうとしていた。

 

 

 

(次回へ続く)

 

 

 

2008年11月

『ミスター・ヴァーティゴ』

 

2008/11/12

 

 

ここのところ、ずっと本を読んでいる。好きな作家ポール・オースタ-の『ミスター・ヴァーティゴ』だ。発売からはだいぶ時間も経っているが、さかのぼってオースターの本を読んでいる私には、まだ新しい一冊だ。宙に浮く少年の話で、実に摩訶不思議というか空想的なのだが、ときどきフィクションなのか、ノンフィクションなのかよくわからなくなる。オースターのストーリーはいつも巧妙で、少し複雑だ。気がつくとその不思議な世界に入り込んで、迷宮入りしたかのように現実に戻れなくなる。あまりにもリアルで鮮明な世界だからか、時々「これってフィクション?」と確認してしまうほどだ。ノンフィクション好きの私はあまり普段フィクション物を読むことはないのだが、オースターだけは例外。ここのところずっとオースターの本ばかり読んでいる。ずっと、ずぅっと、どっぷりはまっている。通勤途中、カフェで、そして寝る前に。

 

 

そういえば「ヴァーティゴ/vertigo」は「めまい」という意味。ぐるぐるはまってふらふらする。ある意味、オースターの世界にめまいを起こしているこの頃の読書生活なのでもあった。

 

 

 

2008年11月

本のことを書いてみる vol.4

 

2008/10/25

 

 

そういえば前々から思っていたことがある。

 

それは、世の中の人は、読み終わった雑誌をどうしているのかということだ。

 

別に私は、極度の雑誌好き人間というわけではない。思い起こせば中学生のころ、私はお小遣いの大半を費やして、毎月67冊くらい買ってしまうような雑誌好きの子供だった。しかし今では、毎月決まって購入している雑誌というのも、ほんの数冊という程度だ。しかし、それでも、雑誌はたまる。そんなに買っていなくても、それなりに部屋に積もっていくのである。ハードカバーの本などは、読み終わっていらなくなっても、ブックオフ経由でNPOに寄付することもできるのだが、雑誌ではそうもいかない。結局いらないものは資源ごみとして出してしまうのだが、雑誌の中の一部分だけをとっておきたいものもあり、そう全部を簡単に捨てるわけにはいかないのである。そこで私は密かに気になっている。一部分だけを残しておきたい雑誌については、そのまま捨てずにとっておくのか、それとも必要なところだけ切り取りスクラップしておくのか。世の中の人は一体全体どうやっていらっしゃるのだろう。結局私は、残しておきたい大切な記事があるものは、その雑誌一冊丸ごとをとっておいている。そのため、永久に雑誌は減らない仕組みなのである。

 

まぁ、別に大したことでもないのだが、世の中の方々は一体全体どうやっているのかなぁと、密かに気になっている私なのであった。

 

 

2008年10月

本のことを書いてみる vol.3

 
2008/10/24
 
 
 
休刊続きの出版業界だが、どういうわけか広告収入だけで成り立っているような安泰な本もある。
 
 
そして最近私が気になっているのが、とある「ぎらんぎらん」した雑誌のことだ。この雑誌、基本的には私のような人間はターゲットに入っていない。いや、もっと言ってしまえば、女性が読むような本ではないのだが、とにもかくにも口があんぐりとしてしまうほどにぎらんぎらんしているのである。主に、40代以上の男性向けなのだろうが、そこかしこにこう、なんというか、「お金持ってます」みたいな雰囲気が漂っている。一番引いたのは「自家用ジェットはいくらでもてるか」みたいな記事があった時だ。しかも、夢物語ではなく、かなりリアルな話であった。まあ、もともと「お金持ってて仕事もできて、趣味もプライベートも充実してますけど?」というような男性向けなのだろうが、「車に別荘にクルージングに」みたいなぎらぎらした男性誌がそれなりに売れているにもかかわらず、その一方で中身もぎゅぎゅぎゅと詰まっている一見地味目の文芸誌が休刊に追い込まれていくというのだから、私はなんとなく、いや、かなり腑に落ちない。いったいどんな男性方がこの手の本を眺め、そしてこの本を吸収しているのだろうと、ちょっと不思議に思う。おしゃれな男性向けらしいけれど、私にとっては首をかしげるものもなきにしもあらず。
 
 
まぁ、そんなことはどうでもいいか。
 
 
いずれにせよ、「いい本のほうが売れない」というのは、長く出版業界で働いている方々の切実な心の叫びなのだろう。
 
 
真っ当な中身の濃い本が、もっともっと売れてほしいと思っている私なのであった。
 
 
 
 
 
2008年10月

本のことを書いてみる vol.2

 
2008/10/23
 
(前回から続く)
 
 
『論座』、『現代』、『読売ウィークリー』
 
 
これら3冊の共通点、実はごく最近できたばかりだ。
 
 
かと言えば、この3誌。残念なことに、休刊が決まった雑誌なのである。『論座』と言えば、堅いイメージはあるものの、『月刊文藝春秋』と似たようなタイプだと思っていたし、休刊するなんて思ってもいなかった。
 
そして、何より『月刊現代』だ。まさか、あの『現代』が休刊に追い込まれるとは信じがたい事実である。実際、『現代』も『月刊文藝春秋』、『正論』、『諸君』などとどことなく似たような総合誌のイメージだが、私はいたって普通に売れていると思っていた。にもかかわらず、「休刊」と言う事実である。これには私も衝撃を受けた。
 
そして、つい先ごろ確定したのが(正式発表は10/29?)、『読売ウィークリー』のこれまた休刊だ。12月頭でどうやら発刊がストップするらしい。総合文芸誌という感じではないが、ミーハーな週刊誌や、きちっとした経済誌でもなく、ちょっと珍しいタイプの週刊誌であり、電車の中吊り広告でもしょっちゅう目にする雑誌であった。
 
 
この3誌の中で、私が一番よく購入していたのはもちろん『現代』だ。週刊現代は買えない&買わない私だが、月刊のほうは、読みたい記事があればきちんと毎号買っていた。にもかかわらず、休刊とはなんとも悲しい時代である。おそらく、『月刊文藝春秋』が一番総合誌としては売れているのだろうが、この手の読み物が世の中から消えるというのは、やっぱりネット重視の時代だからなのだろうか。それとも、活字離れの結末なのだろうか。いやそれとも、もっと違うジャンルに興味関心が移ってしまったというのだろうか。答えはわからないが、名だたる雑誌の休刊がばたばたと続いている。しかもあの『月刊PLAYBOY』までもが休刊が決まったという事態。いやはや、これからの出版業界というのは、何がどう変わっていくのだろう。
 
 
 
そんなことを最近至極、思っている。
 
 
 
 
 

本のことを書いてみる vol.1

 

2008/10/22

 

 

『論座』、『現代』、『読売ウィークリー』

 

 

この名前を聞いてすぐにピンと来る方は、きっと本がかなり好きな方か、出版業界に関係している方だろうと思う。

 

これら3冊の雑誌には、実は共通点がある。

 

 

わかる方には「超簡単!」だが、あまり馴染みのない方には「はて?」というこの共通点。

 

 

本のことについて、これからちょっと書いてみようと思う。

 

 

 

 

2008年10月

あたらしい図書館 (後編)

 

2008/10/12

 

本を読みたい気持ちと、本を読める時間のバランスが取れるようになったある日のこと。私は夜7時過ぎ、仕事を終えて東京タワーのほうへと向かっていた。ネットで港区立図書館を調べたところ、オフィスから歩いて10分強のところに「みなと図書館」というのがあることがわかったからだ。閉館時間は夜の8時。9時までであればもっと嬉しいのだが、そうもわがままは言えないだろう。私はてくてくと歩いて、東京タワーを眺めながら目的の場所へと向かっていた。その図書館は、御成門駅のすぐそばにあり、大通りに面した良いロケーションにあった。しかし私は、ずっと前からこの近くを通っていたのにもかかわらず、そこが図書館であるということに、まったく気が付いていなかった。建物があったのは知っている。しかし、まったくもって図書館だと思っていなかった。初めてこの日、この図書館の近くまで来てみて、ようやくその理由がわかったのである。芝公園のあたりは、スダジイやクスノキなどの大きな木がとても多く、実に気持ちの良い環境が保たれているのだが、この図書館も周りに木が多いため、遠目ではわかりにくくなっていたからだ。

 

 

「なんだ、ここって図書館だったんだ」

 

 

東京タワーの近くに、図書館なんてあったっけ。到着するまでずっとそう思っていた私は、ようやくすとんと府に落ちていた。灯台もと暗しというか、なんというか。地図を見てもピンと来ていなかった私は、自分自身の日々の観察力の無さを少し反省していた。のほほん、たら~んと過ごしていては、世の中もったいないことだらけだ。そんなことを思っていた。

 

 

茶色の落ち着いた建物に入る頃。なんだか私はちょっと楽しくなっていた。あたらしい図書館なんて、実に久々だ。いや、もちろん、その施設自体が新しいわけではなく、ただ単に私個人にとってあたらしいのだが、初めて訪れるその知の宝庫が、一体どんな風なのかとなんだかわくわくしていたのだ。

 

 

館内に入り、あたりを見渡すと、そこは不思議なくらい、懐かしくあたたかい空間だった。初めて訪れるのに、懐かしいというのはどういうことなのだろう。いや、きっと、私だけではない。他の誰かでも、きっとどこか懐かしさを覚えてしまうような図書館だったのだ。私はなんだか、小学校や中学校の図書室をふっと思い出していた。木の本棚、木の床。長年大切に使われてきたであろう木のぬくもりが、あちこちに感じられるような空間だったのだ。おそらく最近では、いろいろな図書館でリニューアルがなされ、とてもおしゃれでスタイリッシュな本棚があったり、シンプルで機能的な空間を作り出しているのだろうと思う。しかしここは、そういった現代的なセンスとは一線を画した、実に図書館らしい図書館で、私は妙に嬉しくなった。建物的にはそれほど新しさはないのだろうが、なんだかこう、妙に親しみが沸いてくる。1階から2階までが大きく吹きぬけになっていたり、本棚の間があまり狭くない上に、背の高すぎる本棚がないこともあり、私は居心地の良さを感じていた。港区の図書館というと、なんだかこう立地的に、ものすごく新しく洗練されたようなイメージがあったのだが、その予想はいい意味で裏切られ、私はあたらしい図書館に出会えたことが、なんだかとても嬉しく、満たされた気分になっていた。

 

 

閉館時間までじっくりと時間を過ごし、私は計3冊の本を借りた。大好きなポール・オースター著のノンフィクション2冊、そして、偶然見つけた、そして今まで気が付いていなかった植樹の本、『いのちの木を植える』(岡田卓也氏×谷川俊太郎氏対談集)の、計3冊だ。本当はもっと借りたかったのだが、あまりにも重いので、小分け作戦でいくことにした。こんなにたくさん読めても、お金がかからないなんて、図書館ってなんてすごいんだろう。そんなごく当たり前のことに、小さな幸せを覚えていた。

 

 

 

帰り道。オレンジ色に灯された東京タワーを眺めながら、お気に入りのカフェへと目指すことにした。

 

 

秋の夜長の読書タイム。

 

 

久々に、こんな秋を満喫できることに、やっぱりちょっと感謝なのであった。

 

 

2008年10月

あたらしい図書館 (前編)

 

2008/10/11

 

 

10月に入ってから、本を読む時間が増えた。仕事が珍しく少し落ち着いたおかげであり、秋の夜長で本を読むのにぴったりの季節になったからでもある。気がつけば今年の頭から9月まで、本らしい本を読んだ記憶がほとんどない。本を買ってじっくり読む時間がなかったからだ。しかし今、嬉しいことに、本を読む時間と読みたいという気持ちのバランスがとれるようになっている。とはいえ、次から次へと読みたい本はあっても、本屋で片っぱしから買うわけにもいかない。そんなことしたらあっという間にお金はなくなるし、そして何より、読み終わった本が部屋のあちこちに積まれていって大変なことになる。そんなわけで、図書館に行こうかと思ったが、土日に地元の少し離れた図書館へ行くのもなんとなくめんどくさく、平日の夜にどこかで本を借りることができないかと探すことにした。日比谷の図書館も大きくていいのだが、有楽町の駅からも、新橋の駅からも少し離れており、もう少し使いやすい場所はないかと思っていたのである。そういえば、私が普段いる浜松町の近くで、区立の図書館はないだろうか。そう思ってネットで探すと、東京タワーの近くに図書館があるという。

 

 

これはいいかも。

 

 

そう思って、私はちょっと行ってみることにした。ある平日の夜のことだった。

 

 

 

2008年2月

作家の思い

 

2008/2/2

 

 

突然だが私はブログの原稿をいつもパソコンのWord文書で書いている。別に、ブログ本体に書いてもいいのだがWordで書いて貼り付けたほうが効率がいいので、いつもそうしている。そんなわけで、かなりのブログ原稿が私のパソコンに保存されているのだが、ふっと1月分を書き終えて気がついたことがある。それは、文字数のことである。

 

1月分全てのブログの文字数を計算すると、どうやら約23,000文字になるらしい。400字詰め原稿用紙に換算すると、その数約58枚。それなりに多い数である。そしてこの数字を見て、私ははたと思った。今まで一体どれくらい書いているんだ?と。

 

そこで私は、すぐにわかる過去4か月分のデータをさかのぼってみることにした。

  

200710   17,000文字   43

200711   26,000文字   65

200712月  約9,600文字  約24

20081    約23,000文字   58  

 

この4か月分を単純に足すと、75,600文字、 189枚となる。さらに1年分を出すために、これを単純に3倍すると、1年で226,800文字、567枚である。

 

私はこのブログを2年以上に渡って書いているため、大まかな計算でも、今まで400,000文字くらいは書いていることになる。つまり、毎日、原稿用紙1~2枚程度は大概書いているということだ。

 

そんなことを考えていたら、この数字が一体どれほどなのかを急に掴んでみたくなった。

 

 

ちょっと本に置き換えてみよう。

 

四六判のハードカバーの本を考えてみると、バラつきもあるだろうが、1ページあたり700文字前後が妥当な数字ではないかと思う。そこで、1ページを700文字とし、1冊を仮に200ページとすると、その文字数は、

 

700文字×200ページ = 140,000文字

 

と、なる。

 

この計算で私は気がついた。私のブログの8か月分が約150,000文字なのだ。8ヶ月間、つらつらと毎日分書き続けても、ハードカバーの本1冊程度にしかならないというわけなのだ。

 

この事実を知った私は、今までのありとあらゆる考えを一瞬にして反省することになった。

 

 

そう、

 

「作家さま、ごめんなさい」

 

と、いう思いだ。

 

 

いやはや、原稿書くのって、大変なんだな・・・・。

 

いまさら言ってもまったく遅いのだが、改めて作家の大変さを少しだけ垣間見たような気がした私なのであった。

 

 

おしまい。

 

 

 

2008年2月

3冊をめぐる旅 (後編)

 

2008/1/28

 

好きな本を3000円分もらえるというささやかな幸せを、私はどう具体化しようかと数日の間考えていた。そして結局、私が選んだ本は、我ながら実に私らしいチョイスとしか言いようがなかった。そして、新しい本というわけでもなく、前々からその存在は十分すぎるほどに知っていたものだった。とは言え、まだ一度もきちんと目を通したことがないその本たち。私は合計金額を計算しながら、今私にとってベストとも思える3冊の本を選ぶことにした。どれもこれも、歴史に残る名著であることは間違いない。そして、一生持っていて損はないだろうと思える本である。

 

 

結局、私が選んだのは、この3冊だ。

 

 『青春を山に賭けて』   植村直己著

 『旅をする木』 星野道夫著

 『森と氷河と鯨』 星野道夫著

 

 

こう書くと、よく知っている人からは「え?まだ読んでなかったの?」と言われそうである。事実、『青春を山に賭けて』、そして『旅をする木』は、植村さんと星野さんの代表作中の代表作であり、まず入門書として読むべきだろう本である。しかし、私は、今まで何度もこの本を手に取りながらも、どうもしっくりこず、いつも棚に戻していたのである。

 

おかしいと言われそうだが、私は本にも出会うべきタイミングがあると思っている。本だけではなく、人も、場所も、出会いというのにはすべてタイミングがあるのだが、とりわけ「あ、これ、今だ」とピンと来て出会うのが本だと思っているのである。つまり、今まで何度も手にしながら、読み始めるまでに至らなかったのは、「うーん、なんか今じゃないな」という直感ゆえなのだ。どことなくタイミングをはずすと、心に響いてこないというか、何か気がつくべきことに気がつけないような感覚がするのである。しかし、今まで幾度もそんな「なんか、今じゃないな」という思いが続いていたこの2冊だが、今回は妙にしっくりきた。「あ、今だ」という直感がきて、結局私はこの本を手にすることになったのである。

 

 

直感に導かれ頼んだ本は、ありがたいことに2日後には家に届いていた。私は休日の土曜、日曜を、読書に充てることにした。まずは、星野さんの『旅をする木』からはじめよう。アラスカの空気を久々に感じてみよう。そんな気分で読み始めるや否や、やはりタイミングが外れていなかったことを、直感が正しかったことをすぐさま私は理解したのである。

 

 

できることならば、2ヶ月くらいアラスカに戻りたい、そして少しの間でもじっくりと生活をしたい。

 

しかも、できるだけ近いうちに、早いうちに。

 

 

今の私の様々な五感や考えをそっと後押ししてくれるような、そんな素晴らしい本に出会えたことに、そしてタイミングにやはり感謝すべきであろう。 

 

 

3冊をめぐる旅。 

 

いまだ、まだ、進行中。

 

 

3冊をめぐる旅 (前編)

 

2008/1/27

  

つい最近、私は新しい本を3冊手にした。新しいと言っても、私にとって新しいだけで、新刊書という意味ではない。そして、手にしたと言っても、自分でお金を出したわけでもないのである。

 

だいぶ前のことだが、私はオンライン書店「bk1」にとある本の書評を載せたことがあった。そんなにたくさん、そしてしょっちゅう載せているわけではないのだが、ある時たまたま書評を投稿したら、偶然それが「今週の書評」みたいなものに選ばれて、WEB上でしばらくの間紹介されたことがあったのだ。その際に、私は賞金とも言える3000円分のポイントを頂いていた。そしてつい最近、このポイントの有効期限が間もなく切れることをメールで知り、私は3000円分の本を手にすることになったのだ。

 

ポイントがあと数日で無効になると知らされた私は、一瞬何を買おうか迷って固まってしまった。あらたまって普段買えないような高い本を買おうと思ったのだが、何が欲しいのか、そして今どんな本があるのか、最近全く本屋に行けていない私には、すぐにアイデアが浮かばない。とは言え、衝動やデザインだけで選んで買ってしまっても、ハズレてしまったらもったいない。だからといってかつて読んだことがある本を買っても仕方ないしと、私はしばらく頭の中で色々なことをめぐらしていた。本来であれば本屋で手にとってしっかり選んだあとにネットで頼めばいいのだが、今の時点ではそういう時間もない。とは言え、せっかくの機会なのだから長く読めるいい本を手にしたい。

 

そんなことを思いながら、私はネット上で本を調べることにした。

 

大体の目星をつけながら、好きな本を手にできるという幸福感を、少しの間味わっていた。

 

 

2007年6月

豆腐を読む

 
2007/5/5
 
 
京都明けの休日。
 
前夜ベッドに軽く横になった途端、気がつけば朝を迎えていた私は、いささかの反省を覚えながら、お風呂にゆるゆる入ることにする。
 
 
久々にまったりお風呂に入りぼけーっとするが、今日のお風呂のお供は本、つまり読書である。
 
昨日、満喫しきった森嘉のお豆腐だが、実は私の中の森嘉の情報や知識は、これに由来しているのである。
 
 
久々に手にとり、真っ白の本をお風呂の中で読みながら、京都の森嘉をまたしてもしみじみと味わってみる。
 
 
本当にいい本は、何度読んでも、いい本なのです。本当にいいものは、何度味わっても、いいものなのです。
 
 
 
 
 
 
 
2007年3月

「本を旅する」その2

2007/2/25
 
最近どっぷりはまっている「本の旅」は今もまだまだ続いている。これは、そんな「本を旅する」その1の続編だ。
 
 
あまりにも有名なこの本。カーソン女史のもうひとつの名著沈黙の春』(新潮文庫)は既にだいぶ前に読み終えていたのだが、どういうわけか、こちらはまだきちんと読んでいなかった。いや、知らなかったのではない。もちろん、以前から何度も本屋で手にはとり、中身をぱらぱらとめくっているのである。が、しかし、どういうわけか、どうも「タイミング」がしっくりとこず、「うーん、今じゃないな。まだだな」という何か意味深な思いで、いつも本を棚に戻していたのである。自分でもそのよくわからない行動に解せなかったのだが、今回はようやく、「あ、今だな」という思いにかられて読み始めたわけである。
 
ゆっくりとページを開き、静かに読み始めると、次第に胸の奥底にすとーんと何かが落ちていくような気がした。それはそれは、なんだか見事なタイミングで、いろいろな物がすんなりと理解でき、きれいに物事が整理されていったような感覚なのだ。「そうか、だから今まで読まなかったのか」。そんな妙な納得を覚えていた。おそらく、2~3年前に読んでいても、ここまで理解と共感を覚えることができなかったかもしれない。つまり、自分の熟成度や、理解度が及んでいなかっただろうと思うのだ。もちろん、内容は極々シンプルな話なので、理解はできるのだが、それをどこまで納得し会得できたかはいささか疑問である。そんなようやく「ぴたっ」とはまったタイミングに、この本を読めたのはありがたいことである。そして、自分の考えを改めて整理し、これからやりたいこと、進みたいこと、学ばなければならないことを示唆してくれるような、素晴らしすぎる一冊だった。もちろん、私の人生の中で、殿堂入りの一冊であることには違いない。これからも、ことあるたびにこの本に立ち返ることになるのだろう。これからも多くの方に読みつがれていってほしいものである。
 
さわやかな気分になったのち、今度は宇宙物理学や自然科学の研究者である松井孝典氏の本『コトの本質』(講談社)を手にする。松井先生の話は、WEB上で読んだ事がある程度で、著作をきちんと読んだ事がないのだが、これはちょいとやわらかめそうな感じがするので、あまり肩肘張らず読むことにする。内容は「考える」ということについて。これだけだと、「は?」という感じなのだが、読んでいるうちに「ほー、なるほどそうですか」と納得(いや、理解?いや、知るだけか?)するような感じでなかなか面白い。物理学や、地球生命学みたいな話がごろごろと出てくるので、物理がだめな私には厳しいところもあるが、環境問題を学びたい私には得られるところももちろん多い。しかも、コムツカシそうな割には、あっという間に読破してしまえると言う不思議な本である(実際ものの3時間弱で読み終えた)。新しい思考や理念を取り入れたい方には、ぜひオススメしたい本である。
 
松井先生の本を読んだ後、私はまたしても別の宇宙物理学者、池内了先生の本を手にとることにした。なんだか最近、科学者の本ばかり読んでいる気がするのはなぜだろう・・・。
 
「本を旅する」はこれからもまだまだ続くのだ。
 
 
 
 
 
 
2007年2月

「本を旅する」その1

2007/2/18
 
 
ふと気がつけば、最近、本ばかり読んでいる。昨日も出かけた帰りに図書館にこもり、数時間本を読破した後、またしても本を沢山借りてきた。
 
一体全体この本への没頭はいつから、そしてどこから始まっていたのだろう。
 
思えば、すでに1ヶ月弱前になるが、1月25日はささやかながらも自分にとっての転機の日であった。それは今でもはっきりと覚えている。そしてその後、読書にどっぷりとふけるようになったのだ。もともと本はそれなりに読んでいたが、いっきにギヤが入って、加速し続けているといったところだろうか。翌26日に、大先輩から世界の賢人アーヴィン・ラズロー氏の本『カオス・ポイント-持続可能な世界のための選択』(日本教文社)をお借りし、それを契機に一気に図書館でがばっと本を借りて読みふけるようになってしまった。そしていまだ、そのスピードは止まっていないのである。
 
さて、この『カオス・ポイント』。私にとっては実に納得し共感することの多い素晴らしい一冊だった。「そうよそうよ、そうなのよ~!」と心の中で頷くことばかりで、嬉しくなったのである。環境を考える人にも、哲学を考える人にも、実にお薦めだ。今、どういう考えで日々の生活を進めていかなければならないのかといったことが、わかりやすく書かれている。ぜひ多くの方に読んで頂きたいものである。
 
この『カオス・ポイント』を1週間ほどで読み終えた私は、次から次へと様々なジャンルの本に手を伸ばした。とにもかくにも活字を欲して、むさぼるように本を読みたくなっていたのだ。続いて読んだ本は、これまた世界の賢人かつ偉大なる生物物理学者のジェームズ・ラヴロック博士の本。ちなみに、ラズロー博士とラヴロック博士は龍村仁監督の映画「地球交響曲」に出演されていることでも有名である。そのラヴロック博士の新刊書が『ガイアの復讐』(中央公論新社)だ。環境分野に携わっている人にとっては、必読の書とまで言われるラブロック博士の書だが、中身はやはりいささか難しい。が、今までの環境に対する概念や、知識などを、いろんな意味で打破してくれるようなすごく濃厚な一冊である。入門書というほど易しくはないが、学ぶところの多い一冊でじっくりと読む事になる。
 
『ガイアの復讐』を読み終えた後、大好きなアラスカの自然を味わうべく、星野道夫さんの本を数冊読むことにした。一般的に、「アラスカ好き」な人というのは、星野道夫さんの本をかなり読んで、アラスカへの思いが膨らんでからアラスカの現地に訪れる人が多いようだが、私の場合はその逆である。アラスカになんとなく勢いで行っちゃってから、アラスカにどっぷりはまり、その後、星野さんの写真や文章を読んで、自分の体と心の中でアラスカの良さを再実感しているというタイプである。そのため、星野さんの本を全部読破することはできていない。というわけで、『未来への地図-新しい一歩を踏み出すために』(朝日出版社)『ノーザンライツ』(新潮社)『イニュニック「生命」-アラスカの原野を旅する』(新潮社)を、他の本とはさみながらも読むことにする。そして、どっぷりとアラスカの大自然や、隠された歴史、そして極寒の情景を満喫することになる。読んでいるだけで、自分がアラスカを飛んだり歩いたりしているみたいで、実に心地よい。そして、一番心に残った言葉がこれだった。
 
「昔はよかったというノスタルジアからは、何も生まれない」。
 
前を見るしか、人生はないのだということを、痛感する。
 
図書館への返却期限が切れる直前、私は3冊のまだ読み終えていない本を眺め、どれを読むべきか迷っていた。そして、返却期限ギリギリに読み始めようと決めた本、それは、登山家植村直己氏の『極北に駆ける』(山と渓谷社)だった。本来ならば、植村直己氏の世界を知るには、やはり名著『青春を山に賭けて』をまず最初に読むべきだろうとは思うのだが、偶然こちらのほうを本棚で先に見つけてしまい、『極北』を先に読むことにしたのだ。とは言え、今まで、さまざまな雑誌や本で植村氏の生前のご活躍ぶりはなんとなくは頭に入っていたので、すんなりと植村氏の世界に足を踏み入れることはできた。ある程度の予習が出来ていたのもよかったのかもしれない。
 
しかししかししかし。この『極北に駆ける』は痛快なほどに面白かった。もう、図書館で声を出して笑ってしまいそうなほどに面白く、ものの2時間ちょっとで読み終えてしまうほどだった。話の舞台は、極北の地グリーンランド。犬ぞりでの南極大陸横断を目指していた若かりし頃の植村さんが、南極に挑む前にグリーンランドにひとまず渡って、犬ぞりをマスターしようという話なのだが、これがもう面白いったらありゃしない。最近読んだ本の中では、ダントツに気に入った一冊なのである。とはいえ、この『極北に駆ける』、初版は1974年だから、もう30年以上も前のストーリーだ。にもかかわらずこれだけ面白いのは、グリーンランドのエスキモーたちと一緒に生活をしながら犬ぞりに挑むという、ある意味破天荒な植村さんのチャレンジとその豊かな心が生き生きと描かれているからなのかもしれない。まぁ、この本を読んで、「超面白い!」と思ってしまう女子(私)も、ある意味変わっているかもしれないのだが(とは言え、犬ぞりは私にとって身近なものでもあるし)、植村さんの、こう、あけっぴろげな感じが、なんとなく私は好きなのである。もっと色んな植村さんの本をこれから少しずつ読んでみることにしよう。
 
そんな痛快な植村さんの世界を終え、私は現代に戻ることになる。偶然手に取ったのは、宇宙物理学者である池内了先生(「了」と書いて、「さとる」と読む。ずっと、「りょう」と読んでいたのはこの私・・・)の本、『ソフトランディングの科学-ゆっくり、時間を長く』(七つ森書館)である。
 
そもそも、池内先生はかつてから知っていたものの、「物理・・・・」というわけで、私にはまったくもって近寄りがたい存在だった。なにせ、物理は高校時代、赤点の常連であったのだ(笑えない)。いや、物理だけではなく、化学も、生物も、地学もダメである。基本的に、超文系人間なので理数全般はダメなのだが、そんな私でさえも楽しく、面白く、読めてしまうのが、この本であったのだ。面白くも、簡単に、そして庶民的な視点から、科学やエネルギーの話をしてくださるのが、なんともありがたい。メインテーマは、「地球環境がおかしくなっている今、日常生活の中で私たちはどう考え、行動していけばいいのか」といった具合なのだが、それがまた易しく、楽しく書かれているのである。例えば、電化製品についてとか、省エネのことだとか、はたまた買い物の際のコツやらといった、超庶民的なネタが満載である。まぁ、とっくに省エネもばっちりやって、環境意識も高い人には、今更という感じがしないでもないだろうが、科学的なネタもあるので、それなりに面白いだろう。更には今までまったくもって何も意識をしていなかった人にとっては、環境や生物のことをちょっと知り、更には、自分でも何が出来るかなーということを知ることのできる一冊のように思う。こむつかしい話も、難解な言葉もなく、環境分野の入門書としても◎な一冊なのであった。
 
そんなこんなで、私は次から次へと、様々なジャンルを行ったり来たりと旅をしているわけである。しかも、すべて、ノンフィクション。誰か作ったフィクションを味わうよりも、とにかく事実を知りたいというのが、ここのところの思いである。
 
 
本の旅、まだまだしばらく、続きそう。